欧州予選グループ6
時は1993年11月、その3週間前に日本はワールドカップ本大会出場権をかけて、ドーハでイラクとアジア最終予選の最終戦を行い、後半アディショナルタイムに同点ゴールを奪われ本大会出場を逃していた。のちに「ドーハの悲劇」と呼ばれる試合である。そして、それと同様の、いやそれ以上の悲劇がヨーロッパのフランスで行われた試合があった。
フランスとブルガリアは、1994年のワールドカップ本大会出場権をかけて欧州予選グループ6に入り激闘を繰り広げていた。出場権は上位2カ国に与えられ、グループ6はフランスが本命視されおり、順調に帆を進めて残り2戦を1勝まで漕ぎつけていた。しかし、10月のイスラエル戦をホームでまさかの敗戦を喫してしまい、勝負の行方は最終戦のホームブルガリア戦までもつれ込むことになった。
最終戦前の状況は、フランスが6勝1分2敗の勝点13、ブルガリアが5勝2分2敗の勝点12であった。つまりフランスはホームで引き分け以上で突破という、まだまだ有利なアドバンテージを持っていた。一方ブルガリアは、アウェーフランス戦の勝利以外は突破の可能性がなかった。なお、この試合前にスウェーデンが出場権を獲得しており、残り1枠がこの直接対決で雌雄を決することになっていた。
試合
試合は、立ち上がりから両チーム激しい攻防で始まった。勝たなければならないブルガリが攻め込みたいところだが、フランスもがっぷり四つで組んで攻め合っていた。緊迫した展開が続いていくなか、前半17分にハプニングが起きる。激しい攻防に血が騒いだのか、鶏がピッチに乱入してきた。捕えようとする選手たちを華麗なフェイントで次々とかわしていき、1分ほど逃げ回ってピッチを後にしていった。
仕切り直しで再開した試合は、前半32分にフランスに待望の先制点が入る。右サイドからデシャンがクロスを上げ、パパンが頭で落としたところをカントナが押し込みフランスが先制した。出場権獲得に大きく前進したフランスだったが、その5分後の37分、左サイドからのCKをバラコフが上げ、コスタディノフがきっちり頭で合わせてすかさず同点に追いついた。
結局、前半はこのまま1-1で終了したが、ブルガリアはすぐに同点に追いつけたのは後半に向けて大きく、試合はまだまだ予断を許さない状況になった。
いよいよ勝負の後半が始まり得点が欲しいブルガリアだが、フランスの方がボールをキープして試合を進めていった。時折、ブルガリアも攻め込むがフランスのディフェンスをなかなか破れずに時間だけが経過していった。
そしてフランスに本大会出場権がちらついてきた後半終了間際の89分、ブルガリア陣内の右サイド深い位置でフランスがFKを獲得する。このままキープして時間を稼げば終了というところで、交代出場で入ったジノラは何を思ったのか、ゴール前にカントナしかいないにもかかわらず、センタリングを上げてしまいブルガリアDFのクレメンリエフに渡ってしまう。
これがラストチャンスのブルガリアは、バラコフ、ペネフと繋いで、最後に浮き球のスルーパスをコスタディノフに通し、右足を振り抜いたシュートがGKラマの頭上を突き刺して土壇場で逆転した。静まり返るスタンド、そして間もなく試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
土壇場で出場権を獲得したブルガリア選手団をよそに、パルク・デ・プランスのスタジアムは広大な葬儀場と化した。試合終了と同時にベンチを後にしたウリエ監督、頭を抱えるデサイー、座り込むブラン、号泣しながらピッチを後にしたデシャン、そして不要なセンタリングを上げてしまい、この試合最大のA級戦犯となってしまったジノラはしばらく動けなかった。
その後のブルガリア
フランス側にとっての悲劇は、ブルガリア側にとっては歓喜の勝利であったわけだが、出場権を獲得したブルガリアは翌年のワールドカップ本大会でも旋風を巻き起こした。準決勝まで勝ち上がり、ベスト4の好成績を残した。結果論ではあるが、この時期のブルガリアは同国史上最強チームであった。また、ストイチコフは同大会で得点王となり、この活躍で同年のバロンドールを受賞している。
予選グループ6のもう一つの枠で出場したスウェーデンもワールドカップ本大会で準決勝まで進出して3位の好成績を残しており、これまた結果論ではあるが、欧州予選グループ6は実力伯仲の3カ国が同居した最激戦区であった。
その後のフランス
さて、フランスサッカー史上でも歴史に残る悲劇的な敗戦を喫してしまったフランス代表チームは、当然ながら抜本的な見直しを迫られてしまう。何より次回の1998年ワールドカップが自国で開催される為、そこで優勝を争うチーム作りをしなければならなかった。まずはウリエが監督を辞任し、後任にアシスタントコーチを務めていたジャケが就任した(当初は暫定でのちに正式になった)。
そして肝心の選手の方だが、当初は今予選のメンバーを主に招集していたが、1995年ごろには、特に攻撃陣の3大スターパパン、カントナ、ジノラを外し、ジダンとジョルカエフのデュオに変更していく。攻撃陣はこの2人を中心に編成していき、中盤以降は今予選でも出場していたデシャン、ブラン、デサイー、プティを軸にチーム作りをしていくことになる。
出場選手(フランス)
GK 1 B・ラマ 1980年代から1990年代のフランスを代表するゴールキーパー。
DF 2 M・デサイー 1998年、2002年のワルードカップに出場。1980年代後半から2000年代前半のフランスを代表するボランチ、ディフェンダー。
DF 3 E・プティ 1998年、2002年のワルードカップに出場。1980年代後半から2000年代前半のフランスを代表するディフェンシブミッドフィルダー。
DF 4 A・ロシュ
DF 5 L・ブラン 1998年のワルードカップに出場。1990年代から2000年代前半のフランスを代表する名リベロ。後にフランス代表監督に就任。
MF 6 P・ル・グエン 2010年のワールドカップでカメルーン代表監督として日本と対戦している。
MF 7 D・デシャン 1998年のワルードカップに出場。1980年代後半から2000年代前半のフランスを代表するディフェンシブミッドフィルダー。現フランス代表監督で2014年、2018年、2022年のワールドカップに監督として出場し、2018年は優勝、2022年は準優勝に導いている。また、選手と監督の両方でワルードカップを制覇。
MF 8 F・ソゼー ▼80分
MF 10 R・ペドロス
FW 9 J・パパン Ⓒ ▼68分 1986年のワルードカップに出場。1980年代後半から1990年代のフランスを代表する史上最高のストライカーの一人。1991年のバロンドール受賞。
FW 11 E・カントナ 1980年代後半から1990年代のフランスを代表する史上最高の選手の一人。
FW 15 D・ジノラ △68分 1980年代後半から1990年代のフランスを代表するオフェンシブミッドフィルダー。
MF 13 V・ゲラン △80分
監督 G・ウリエ フランスを代表する名将の一人。1994年のワルードカップの出場に向けて指揮を執っていたが、最終戦で悲劇的な敗戦を喫した。
出場選手(ブルガリア)
GK 1 B・ミハイロフ 1986年、1994年、1998年のワルードカップに出場。
DF 5 P・フブチェフ 1994年のワルードカップに出場。後にブルガリア代表監督に就任する。
DF 2 E・クレメンリエフ 1994年のワルードカップに出場。
DF 3 T・イヴァノフ 1994年、1998年のワルードカップに出場。
DF 4 T・ツヴェタノフ ▼82分 1994年のワルードカップに出場。
MF 6 Z・ヤンコフ 1994年、1998年のワルードカップに出場。
MF 10 K・バラコフ 1994年、1998年のワルードカップに出場。1980年代後半から2000年代前半のブルガリアを代表するミッドフィルダー。後にブルガリア代表監督に就任する。
MF 11 Y・レチコフ ▼82分 1994年のワルードカップに出場。1980年代後半から1990年代のブルガリアを代表するミッドフィルダー。
FW 7 E・コスタディノフ 1994年、1998年のワルードカップに出場。1980年代後半から1990年代のブルガリアを代表するアタッカー。
FW 9 L・ペネフ 1998年のワルードカップに出場。1980年代後半から1990年代のブルガリアを代表するアタッカー。後にブルガリア代表監督に就任する。
FW 8 H・ストイチコフ Ⓒ 1994年、1998年のワルードカップに出場し、1994年は得点王。1980年代後半から1990年代のブルガリアを代表する史上最高の選手。1994年にバロンドール受賞。後年ブルガリア代表監督に就任。後にJ・リーグの柏レイソルに選手として在籍し、Jリーガーで唯一のバロンドーラー。
FW 15 P・アレクサンドロフ △82分 1994年のワルードカップに出場。
MF 14 D・ボリミロフ △82分 1994年、1998年のワルードカップに出場。
監督 D・ペネフ ブルガリアを代表する名将。1966年、1970年、1974年のワールドカップに選手として出場し、1994年のワルードカップに監督として出場して4位入賞に導いている。
試合結果
フランス 1-2 ブルガリア
得点 E・カントナ(フランス) 32分
E・コスタディノフ(ブルガリア) 37分
E・コスタディノフ(ブルガリア) 90分